花粉は続くよどこまでも

春過ぎて夏来にけらし白たへの衣干すてふ天の香具山。という事で、春が終わって、夏が来ましたが、私の花粉症は続いております。おそらく、イネ科の花粉症にバトンタッチしたのだと思います。

 

花粉症の有病率はおよそ20%と言われています。5人に一人という事です。

そんな花粉症ですが、軽んじられている気がしてなりません。というのも保険適用外になるかもなどというニュースを見たりしますし、9月入学の際に理由としてあげられているのを見た事ありません。理由としてあげられているインフルエンザは発症率10%前後かと思います。しかも、一度治れば、次に罹る確率はだいぶ下がります。花粉症は、発症すればするほど辛くなるという悪質なものです。

 

一年の半分は花粉症に悩まされているなんて、なんて業の深い人生なんでしょうか。

スギを切ってもらえればある程度症状も緩和するでしょう。今回のコロナ禍でも、似た症状のため判断に迷うケースがありましたし、きっと花粉患者がコロナだと勘違いしたケースもあるでしょう。

 

さて、今回は一度書いたブログが消えてしまったので、これくらいにします。ばーい。

専門家は信頼に足るのか

専門家とは、みる人によってその厳しさが変わる。一般人から見れば、圧倒的な知識の前に、言っていること全てが正しいように聞こえる。しかしながら、同業者からは厳しい批判の目で見られる。批判とは、正しいかジャッジされるということである。

 

報道に出てくる専門家は、市民の行動に大きな影響を与えるのため大きな責任が求められる。なにせ、それを聞いている多くの人が話の内容を鵜呑みにするからだ。鵜呑みにするのはそれが楽だからだ。

 

専門家の間で意見が分かれるのはなぜだろう。原理原則を習い、その道で修練を積んでいるはずならば、ほとんどの場合で意見が一致するであろう。

だが、現在の異常事態では、意見が一致しない場面を多分にみるがこれはなぜだろう。ひょっとして意見は一致しているが、本当は我々があえて対立として捉えているだけなのだろうか。

 

論文の正しさは、紙を重ねていくようにして担保される。一つの論文だけでは信用に足らない。まるで、一枚の紙越し光を見れば、向こう側が透けていることに似ている。いくつもの論文が重なることで、本当に確からしくなるのだ。紙を重ねれば向こう側が透けて見えない。つまりは、疑いの余地がなくなってくる。

 

何が言いたいかというと、論文を一つ上げただけでは、論拠として不十分であるということだ。論文はあくまで一つのデータであると理解するのが良い。毎日のように新しい論文が発表され、そのセンセーショナルな内容に右往左往するのは愚かである。

 

今、その論文へのリテラシーのなさから、一つの論文を武器にして他者を攻撃する輩が多いこと。皆様も注意されたい。

 

専門家にとっても厄介だ。データを示して、こうではないか、くらいの主張なのに、こうだ、という強い主張にすり替えられてしまう。なにせ論文の主張で多いのは、今後追加の実験が必要である、だと思う。私だってそう書いた。

 

ともあれ、専門家を無闇に信頼してはいけない。そう思っていた方が何かと都合がいいのだ。

とはいえ私は専門家ではない。信用してくれたまえ。それでは、アディオス。

感情が全ては正しいか

職業柄、いつ休むかは自分次第である。今日は、近くの大きな駅まで行き、つけ麺を食べ、神社でおみくじを引き、楽器屋を見て、本屋で立ち読みし、家に帰ってから、映画を見た。フォレストガンプだ。

 

普段、効率的な生活を心がけ、忙しくしている。忙しいとは、心を亡くすということよく言われるが、実感的にもあっている。現代社会では、感情は脇に置いて、成果を上げていくことが求められる風潮はある。自分でもそう自身に言い聞かせているところもある。

 

さて、述べたように今日は非常に感情的な一日であった。筋肉では”凝る”という表現が使われる。これは夏目漱石がそう表現したのだそうだが、ある人によれば、そう定義したから肩が凝るという症状が認識されたのだという。とにかく、身体現象に対して、我々は”凝る”という言葉を使うけれど、心にも”凝る”という症状があるのかもと今日の経験を通して感じた。

 

感情の湖に身を浸し、乾いた心を潤す作業が生活の中で必要なのだろう。今しがた、コロナウイルスで不安やストレスを感じ、心が”凝る”人が増えているのだろう。人はパンとオペラで生きているとは言い得て妙である。飲食店や宿泊業が必要性の低い業種と果たして言い切れるのだろうか。

 

それはさておき、人間の脳では常に活発な活動が行われている。そこでは、理性的な判断も感情的な処理も同じ脳で行われている。そのためにお互い干渉しあっている。理性的に判断していると思っても、感情が混じっていたり。逆も然り。純粋理性批判に首肯。

 

人生に置いて、感情は扱いづらいが、扱いずらい領域を感情というのかもしれない。兎にも角にも人間には休暇が必要であり、色彩豊かに生活していくために、考えを改めないといけないなと思って1日出会った。

 

人生はチョコレートの箱だ。開けてみるまではわからない。それでは、グッグッナイ。

なぜ小説を読まなくなったのか

子供の頃から読書家の父親に、本を読めと言われていたが、僕は外で悪さをしている方が好きだった。公園で、今では話しかけるのも怖いような、高校生ヤンキーとサッカーをしていたり、落とし穴を夢中になって掘ったりしていた。

 

そんな僕だが、今では読書家と言われる部類になったと思う。とはいえ現代人、特に若者、は本を読む機会が減っているということで、相対的により読書家としてのステータスを確立していると思われる。

 

読書家になるきっかけは、明確に一つある。高校生の頃に、夏目漱石のこころを読んだことだ。1年生の冬に部活を辞めて、退屈すぎたのだろう。折角の機会だから、名作を一通り読んでやろうという気になった。その当時の記憶では、教科書でこころをやっていたが、随分と省略されていた。だから、続きを、あるいは初めから読んでみたいと思ったのだろう。

そんなわけで、こころを読んだのだが、これが初めて読み切った小説だった。作品の中身というより一冊読み切った自分に感動していたのだと、その時は思えなかった。そこから、国語の便覧で次に何を読むか、考える日が続いた。そして読む。読んでいるうちに大学生になったあたりで、ふと気づいた。僕に足らなかったのは言葉だ。言葉で表現することだ。

 

高校生で部活を辞めて腐っていったのも、言葉で自分の気持ちややりたいことを表現できていなかったからだと振り返れば思う。とりわけ人間関係を上手に構築できるようになったのは言葉を通じて人を理解できるようになったからだ。なんだS教新聞みたい。笑

 

それから時が経って今は28。随分と大人になったみたいで、無駄にしてきた多くの時間を口惜しいと思うのだけれど、時の流れは一方通行だ。残念だけれど、いくつかの成長を踏まえてこうして生活をしている。それで、最近どうしてか小説を読まなくなった。そのほかの本は読むようになったのだけど、小説を読まなくなった。読書の入り口は小説だったのにも関わらずだ。

 

この小説を読まなくなったことをきっかけに想起されることだが、大人は音楽を聞かないな、と電車に乗っている際に考えたことがある。それも高校生の時だったかな。大人が音楽を聞かない理由は何かと考えてみたのだが、多感な時期を過ぎ精神的に安定しているから、と結論づけた。

 

これと同じで、僕が小説を読まなくなったのも精神的に安定しているから、なのか。文学も音楽も、もしかしたら精神的に不安定な人たちによって消費されているのかもしれない。

だとしたら朗報だと、普通は思うのかもしれない。安定していることは、いいことだと。

果たしてそうだろうか。人間は不安定な時期に成果を出していくという側面もある。一例を出すなら、相対性理論を生み出した時期、アインシュタインは離婚調停中だった。

 

長くなってきたのでそろそろ終わらせるが、小説を読まなくなった理由はわからない。精神が不安定だから説は音楽を今でも聞いていることが反証になる。自己矛盾を抱えたまま、この話は終わりになるが、それもまた不安定な状態で、ある意味理想なのかもしれない。

話を断ずることなかれ。断ずれば即ち誤りである。そういう美学も確かにある。

 

それでは、明日の太陽まで。グッバイ

「疲れないカラダ」になるために

はぁー、疲れたな。そうして太一は家に帰ってから、シャワーも浴びずに冷蔵庫に冷やしておいた缶ビールを片手で当てて、同じようにくたびれたソファに腰掛ける。しかしながら、まだ時刻は20時。夜遅いけれど、太一の仕事はデスクワークで特別疲れるような仕事をしているわけではない。会社には自分より長時間働いているにも関わらず、エネルギッシュに仕事をしている課長がいる。課長は40代も後半で、太一より10歳も年齢が上である。「どうしてあの人は疲れないのか。」そうして太一はまた缶ビールに口を当てる。

 

さて、今日は「スタンフォード式 疲れない体」を読んで、なるほど、と思ったので簡単に紹介する。

 

この本の肝は「呼吸と姿勢の矯正で疲れない体を手に入れよう」ということである。

これだけだとそこらへんにある普通の本である。

 

ひろねこは貧弱な体をしているので、すぐに疲れてしまう。仕事をしていても4時間もすればすぐにヘロヘロになってしまう。

そんな私なので、こういった話は以前から情報収集していたのだが、一つなるほどと思ったことがある。「IAP呼吸法」である。腹”式”呼吸ではなく腹”圧”呼吸にシフトしていくことである。

 

疲れない体にするためには正しい姿勢と呼吸でリラックス状態と低負荷な状態を作り出すこと。

改めて普段の姿勢や呼吸に意識を向けるよう心がけようと思った。

変な咳をしながら執筆中だけど。

 

それではグッドナイ。

 

文化って何かな

今日、モナコGPを見ました。

個人的な意見ですが、「モナコはつまらない」

 

というのも、「オーバーテイクがないから、はっきりいって地味」

初めて見る人にとってはなぜモナコが特別なのかは理解しづらいと思います。

そこには伝統やなんかがありますが、そこは一旦パスしておいて。

 

モナコの面白さも理解しづらいと思います。僕自身、歴が長いから面白がれる見方ができるけど、正直コース外の争いが面白くなれるのは玄人の人と言っていいでしょう。

 

そういえば、またリカルドが「シューイ」してましたね。

ありゃいかれてんぜ、マジでw

どうやらオーストラリアでブームになっている行為らしいですが、潔癖症の多い日本人にとっては信じがたい行為でしょうね。

モナコ王家の方々も顔をしかめてましたし。

 

そう文化って、部外者にはわからない、ということがもしかしたら必須要件なのかもしれません。中に入ってみないとわからない。あるいは中に入ってもわからないのかもしれない。

 

その立ち入れなさが神聖さを醸成し、高尚なものに高めて行くのでしょうか。

 

ちょっと夜も更けたので今日はこの辺で、グッバイ

どうしてやる気が出ないのか

ここ最近、どうもやる気が出なかったひろねこです。

 

五月の頭に体調を崩してしまいました。そこから治ってもどうもだるさが残って、やる気が出ませんでした。

なんでかな、と思って色々と考えたり、調べたりしてやる気が出ない理由を探して見ました。

 

まず、一つ。体のエネルギーが枯渇しているから。

最初に思い浮かんだことは、風邪と戦うために身体中のエネルギーを使い果たしていたから。今回、風邪が長引き、相当なエネルギーを使ったと思います。

高名な心理学者ロイ・バウマイスター「意志力の科学」にあるように、グルコースの量が減って傷んだということ。

なんせ体温を1度あげると基礎代謝が約180キロカロリー上昇するのだそうで、これは軽くジムに行って運動するくらいはあるんです。

 

例えば毎日ジムに通ってたら疲れてしまいますよね?そんな感じです。

 

では二つ目。

期限付きの目標がないこと。

これは痛いです。なんせ普段の生き方そのものですから。

これからは今週は何すると行った目標を週のはじめに立てようと思う。

 

最後に三つ目。

これは原因というか、捉え方の問題です。

今回こうして風邪を引いて休んでいたのはある意味の調整で、最近の忙しかった日々の疲れを追い払うのに必要だったのかもしれません。

落ち着いてベッドの中で、何かやりたいことあったかな。あっ、あれやりたいな、と考えている時間が必要だったのだと思う。

症状が治まってきてから、読書してなんらかのヒントから、こうしてみようとか考えることができたのもラッキーでした。

 

こうして、やる気を取り戻したひろねこでした。