なぜ小説を読まなくなったのか

子供の頃から読書家の父親に、本を読めと言われていたが、僕は外で悪さをしている方が好きだった。公園で、今では話しかけるのも怖いような、高校生ヤンキーとサッカーをしていたり、落とし穴を夢中になって掘ったりしていた。

 

そんな僕だが、今では読書家と言われる部類になったと思う。とはいえ現代人、特に若者、は本を読む機会が減っているということで、相対的により読書家としてのステータスを確立していると思われる。

 

読書家になるきっかけは、明確に一つある。高校生の頃に、夏目漱石のこころを読んだことだ。1年生の冬に部活を辞めて、退屈すぎたのだろう。折角の機会だから、名作を一通り読んでやろうという気になった。その当時の記憶では、教科書でこころをやっていたが、随分と省略されていた。だから、続きを、あるいは初めから読んでみたいと思ったのだろう。

そんなわけで、こころを読んだのだが、これが初めて読み切った小説だった。作品の中身というより一冊読み切った自分に感動していたのだと、その時は思えなかった。そこから、国語の便覧で次に何を読むか、考える日が続いた。そして読む。読んでいるうちに大学生になったあたりで、ふと気づいた。僕に足らなかったのは言葉だ。言葉で表現することだ。

 

高校生で部活を辞めて腐っていったのも、言葉で自分の気持ちややりたいことを表現できていなかったからだと振り返れば思う。とりわけ人間関係を上手に構築できるようになったのは言葉を通じて人を理解できるようになったからだ。なんだS教新聞みたい。笑

 

それから時が経って今は28。随分と大人になったみたいで、無駄にしてきた多くの時間を口惜しいと思うのだけれど、時の流れは一方通行だ。残念だけれど、いくつかの成長を踏まえてこうして生活をしている。それで、最近どうしてか小説を読まなくなった。そのほかの本は読むようになったのだけど、小説を読まなくなった。読書の入り口は小説だったのにも関わらずだ。

 

この小説を読まなくなったことをきっかけに想起されることだが、大人は音楽を聞かないな、と電車に乗っている際に考えたことがある。それも高校生の時だったかな。大人が音楽を聞かない理由は何かと考えてみたのだが、多感な時期を過ぎ精神的に安定しているから、と結論づけた。

 

これと同じで、僕が小説を読まなくなったのも精神的に安定しているから、なのか。文学も音楽も、もしかしたら精神的に不安定な人たちによって消費されているのかもしれない。

だとしたら朗報だと、普通は思うのかもしれない。安定していることは、いいことだと。

果たしてそうだろうか。人間は不安定な時期に成果を出していくという側面もある。一例を出すなら、相対性理論を生み出した時期、アインシュタインは離婚調停中だった。

 

長くなってきたのでそろそろ終わらせるが、小説を読まなくなった理由はわからない。精神が不安定だから説は音楽を今でも聞いていることが反証になる。自己矛盾を抱えたまま、この話は終わりになるが、それもまた不安定な状態で、ある意味理想なのかもしれない。

話を断ずることなかれ。断ずれば即ち誤りである。そういう美学も確かにある。

 

それでは、明日の太陽まで。グッバイ