専門家は信頼に足るのか

専門家とは、みる人によってその厳しさが変わる。一般人から見れば、圧倒的な知識の前に、言っていること全てが正しいように聞こえる。しかしながら、同業者からは厳しい批判の目で見られる。批判とは、正しいかジャッジされるということである。

 

報道に出てくる専門家は、市民の行動に大きな影響を与えるのため大きな責任が求められる。なにせ、それを聞いている多くの人が話の内容を鵜呑みにするからだ。鵜呑みにするのはそれが楽だからだ。

 

専門家の間で意見が分かれるのはなぜだろう。原理原則を習い、その道で修練を積んでいるはずならば、ほとんどの場合で意見が一致するであろう。

だが、現在の異常事態では、意見が一致しない場面を多分にみるがこれはなぜだろう。ひょっとして意見は一致しているが、本当は我々があえて対立として捉えているだけなのだろうか。

 

論文の正しさは、紙を重ねていくようにして担保される。一つの論文だけでは信用に足らない。まるで、一枚の紙越し光を見れば、向こう側が透けていることに似ている。いくつもの論文が重なることで、本当に確からしくなるのだ。紙を重ねれば向こう側が透けて見えない。つまりは、疑いの余地がなくなってくる。

 

何が言いたいかというと、論文を一つ上げただけでは、論拠として不十分であるということだ。論文はあくまで一つのデータであると理解するのが良い。毎日のように新しい論文が発表され、そのセンセーショナルな内容に右往左往するのは愚かである。

 

今、その論文へのリテラシーのなさから、一つの論文を武器にして他者を攻撃する輩が多いこと。皆様も注意されたい。

 

専門家にとっても厄介だ。データを示して、こうではないか、くらいの主張なのに、こうだ、という強い主張にすり替えられてしまう。なにせ論文の主張で多いのは、今後追加の実験が必要である、だと思う。私だってそう書いた。

 

ともあれ、専門家を無闇に信頼してはいけない。そう思っていた方が何かと都合がいいのだ。

とはいえ私は専門家ではない。信用してくれたまえ。それでは、アディオス。