感情が全ては正しいか

職業柄、いつ休むかは自分次第である。今日は、近くの大きな駅まで行き、つけ麺を食べ、神社でおみくじを引き、楽器屋を見て、本屋で立ち読みし、家に帰ってから、映画を見た。フォレストガンプだ。

 

普段、効率的な生活を心がけ、忙しくしている。忙しいとは、心を亡くすということよく言われるが、実感的にもあっている。現代社会では、感情は脇に置いて、成果を上げていくことが求められる風潮はある。自分でもそう自身に言い聞かせているところもある。

 

さて、述べたように今日は非常に感情的な一日であった。筋肉では”凝る”という表現が使われる。これは夏目漱石がそう表現したのだそうだが、ある人によれば、そう定義したから肩が凝るという症状が認識されたのだという。とにかく、身体現象に対して、我々は”凝る”という言葉を使うけれど、心にも”凝る”という症状があるのかもと今日の経験を通して感じた。

 

感情の湖に身を浸し、乾いた心を潤す作業が生活の中で必要なのだろう。今しがた、コロナウイルスで不安やストレスを感じ、心が”凝る”人が増えているのだろう。人はパンとオペラで生きているとは言い得て妙である。飲食店や宿泊業が必要性の低い業種と果たして言い切れるのだろうか。

 

それはさておき、人間の脳では常に活発な活動が行われている。そこでは、理性的な判断も感情的な処理も同じ脳で行われている。そのためにお互い干渉しあっている。理性的に判断していると思っても、感情が混じっていたり。逆も然り。純粋理性批判に首肯。

 

人生に置いて、感情は扱いづらいが、扱いずらい領域を感情というのかもしれない。兎にも角にも人間には休暇が必要であり、色彩豊かに生活していくために、考えを改めないといけないなと思って1日出会った。

 

人生はチョコレートの箱だ。開けてみるまではわからない。それでは、グッグッナイ。